・寝る直前の予想通りに非常に眠い午前を過ごした。6時過ぎに目が覚めて、そのままスマフォでジャンプを読んだ。Twitterを見てしまうと呪術のネタバレを受けやすいのでその対処。
・ジャンプ、新連載が始まっていたがこの前の新連載にも格闘技モノがあるのでぶつけ合っていく感じはジャンプっぽい。
・カロリー調整のために朝食はザバスだけを飲んで仕事へ。道中、中トロラジオを聞いた。
・世知辛れぇ話を世知辛いよねと話していることに価値がある気がする。相談できない、というのは私も同じでたぶん相談事が自己開示に直結するのでなんとなく抵抗があると思っている。男性間では弱さを吐露してケアしあうことがない、と言われるが実感ある。そもそも相談するような悩み事は究極的に1.考えても仕方ないこと、2.自分でやる(やらない)を決断すること、のどっちかになる。人に話す前に頭でっかちに分解をたくさん行うので喉にまで登っていない。あと寝てしまうと一旦は処理されて溜飲が下がるのでなんとかなってしまうのもある。実際は何ともなっていないのだけど表面上は通過してしまう。人生全般そんな感じで暮らしているな。
・花束みたいな~、をいまだに見ていないのでそろそろ見たほうがいい気がしてきた。
・とか思いながら『きさらぎ駅』を見た。低予算ながらいい感じに題材を調理していてそこそこ面白かった。
・怪異を事前に知っていると対処できる、っていうあまり見たことない展開がよい。そのせいで主人公がかなり突飛な人物として周りに思われてしまう場面がコメディチックでついつい笑ってしまう。「この人アレだから!」「行こ!」のセリフがめっちゃよい。
・きさらぎ駅とは何なのかといった根本の話は大変なので踏み入らないのも潔い。映画内の描写だけでは本当にこの世界は何なんだと思うしかなく、そこに物理法則のような整合性のとれる理は見いだせない。その世界はこうだからさ!って感じなのでへぇ~そうなのか~と思うしかない。
・出てくる人物の男性キャラが意図的な歪みを持たせられているのは見ててノイズになった。そんなやつおらんやろって塩梅なのは酷いことが起きることの準備だと分かってしまう。ちょっとカス→かなりカスの順に酷い目にあっていて、因果応報すぎる。認知ゆがみヤンキーはわりかしストレスだった。
・現代思想のルッキズムの号を思い出したように読んでいた。ルッキズムの解像度が上がる論考が多くて読みごたえがある。言葉本来の意味を踏まえて「見た目」がどのように自分の生活に影響しているかを改めて考えると、空気のように充満していることが発見できる。職業差別なんて関りがなさそうだが、電車の脱毛広告がどんなメッセージを裏に持っていてその価値観を疑わずにいるのか、とか身近な例がいくつもある。
・いろいろ読むとルッキズムは人種差別でも直接的にそれを駆動させていたりもして、かなり幅広いキーワードだなと思う。素朴なところでは「人は見た目が9割」的な言説は結構マジでそういう社会なので深刻に思えてきた。見た目と中身は切り離して捉えるべき、ということに反抗したい理由はなく、そうありたいが実践できているかは微妙な気がする。大なり小なり人の見た目が先入観となっていることは絶対的にある。例えば電車の座席で他人の隣に座るか/座らないかという判定を多くの人はフランクに行っているが基本的には見た目によるものだと思われる。こういう時に人が横に座ると何らかの承認を得たような気持になるがこれに似た事例って他にあんまり思い浮かばない。他人に道を聞かれる/聞かれない、とかかな。
・コロナ禍を経てからはかなり空いていない時を除いて電車では立っているが、いまだに自分の横幅が一番太っていた時の感覚のままなのもある。人が抜けた隙間に私はデカすぎると直感的に思ってしまうが、おそらく実際はそうでもない。
・なにかで知った「外面は内面の一番外」という言葉を思い出したりもするが内外の区切りはないのかもしれない。その人の内面を直接知ることはできないし言語や行動で自分の中にそれを形成していくだけなので。
・ルッキズムは広範なゲームなのかも。社会生活全般はこのゲームがベースになっているのでに参加からスタートする。見た目の判断から逃れようとしてもつい参加してしまう引力もあり、無意識な観客として知らず知らずのうちに参加してしまっていそうだ。
・このゲームからの降りるのはかなり難しい。ゲームを降りると「ゲームを降りたやつ」というラベリングが可能になるので、より阻害されやすくなりそうでもある。少なくともマッチングアプリはほとんど見た目のゲームなのでそれゆえに苦しさの源泉になっていると思う。
・そういえば最近Twitterの仕様でおすすめツイートが目に入る機会が多い。結構な確率で漫画があり、見た目に関する内容が多い印象ある。そういう作品は昔からだけど、「クラスのさえないあいつが実はイケてる」的な漫画が素直にウケているように見える。その裏側には弱いルッキズムの肯定が息づいているように思えるが、どう考えてもそんなこと気にしないほうが楽だ。個人の嗜好と社会的な良し悪しは全然別なのだけど、どちらがどちらを形作っているのかは循環参照的でニワトリの卵みたいな問題なのでこの話はおしまい。