2019/11/10

11/10
『ぼくが愛したゴウスト』をちょっとだけ読む。
打海文三の深掘りはこれでラストだ。
内気な少年と若手俳優が中野駅で人身事故を目撃し、嗅覚に異変をきたして……で始まる小説だ。
一種のパラレルワールドものであり、途中から心と哲学的ゾンビを扱った物語であることが分かり始めて、俄然面白くなってきた。
打海文三はわりかしノンジャンルなきらいがあるが、これもその一つだ。

読んでる途中でアマゾンの配達が来た。
いいころあいなので『デス・ストランディング』に復帰する。

まだ全然進んでないが、このゲームの遊び方はなんとなくわかってきた。
操作方法ではなく、遊ぶ時の心もちのことだ。
デスストは不自由なゲームだ。それでいてやっていることはシンプルだ。
荷物を歩いて運ぶ、ただそれだけのゲームだ。
でもそれが不思議と面白くて、とくに大したことはやっていないのになぜか時間が過ぎていく。
体感時間は短いけど意外とプレイ時間が増えている。そんなタイプのゲームだ。

オープンワールド的なゲーム設計ではあるものの、移動そのものがゲームの中心で、普通なら面倒くさくてファストトラベルする部分こそが肝だ。
だから普通のオープンワールドのゲームを遊ぶ感覚でプレイすると何が面白いかは掴みにくい。
ゲームに没入するためには舞台設定と物語が必要で、それがサム・“ポーター”・ブリッジなのだと思う。
RPGよりもよっぽどロールプレイングするゲームになっている。

ストーリーについては序盤なので全容が見えないが、世界を繋げることがいまのところ肯定されていて、疑問の余地がない命題のようだ。
主人公のサムは繋がりを閉じた人物で、皮肉にも彼が世界をつなげることになって変化していく物語なのだろうか。
マイナスからプラスへと転じていく物語だとすれば、閉じていることがマイナスとされることに若干の違和感がある。
個人的には繋がることが必ずしも良い善いことではないと思っているからだ。
世界を一つに、的なイデオロギーもなんだか受け付けないところでもあるし、むしろそういった揶揄を含めた上での物語なのだろうか。
世界=アメリカとして描かれていることが、そういうことなのだろうか。
とは言え、ストーリーはこれから二転三転するはずなので、この詮索はむ陽だろう。
無邪気に世界を一つにしようぜといった希望的な物語だったら、それはそれで夢や希望を望む一種の作品として受け入れられる気がする。

『20センチュリーウーマン』をNetflixで見た。
とても良かった。1979年のアメリカを舞台に母子家庭と部屋の賃貸人達、息子の幼馴染を含めた5人のドラマが連作短編のように描かれる映画だ。
メインとなる母子家庭の息子と母親の物語だけでなく、3人の女性を中心として性愛、子ども、大人をテーマにストーリーは進む。
この3人の取り合わせがちょうど現在、過去、未来の趣があって興味深く見られた。
フェミニズムやジェンダー、そういった要素が散りばめられているが説教臭さは無く、あくまでもドラマがメインなのも好みだ。
けれど決してその要素がおざなりでもなく、とてもきちんとしつつ、かつドラマとのバランスを取っているのがさらに良い。
母と息子の話でもあり、一人の女性の話でもあり、男性の話でもあり、家族の話でもある。
女性3人を含めた全体のキャスティングがとてもよく、この俳優たちだからこその雰囲気があった。
服装のコーディネートはどこを取って素敵だし、画面構成や色遣いはフォトジェニックでとてもキマッている。
アート的すぎず、現実的でとても良い塩梅の画面がひたすらに続くのは心地良い。
悲しい時も楽しい時も、ひとりでもみんなでもダンスをする描写が好きで印象に残る。こういった感覚は日本にはあんまりなくて憧れがあったりする。