・忘れていた日記の更新をやった。とりあえず7月分まで。まるまる1か月分の遅れが出ている。
・日記の取り扱いをどうするかはまだ決めれていない。Twitter(現X)が完全に崩壊する希望的観測は成立せず、今後も質を変えながら存続するらしい。性懲りもなく居続けることになるっぽく、日記だけを更新するような潔さを持てないでいる。アカウントもなぜか二つあり、一つに統合してもいい気もするが分人化していたほうもいい気もする。
・とりあえず書くって態度だけは維持している。
・SWITCHの『特集 ジブリをめぐる冒険』を一通り読んだ。鈴木P、池澤夏樹、作監、演者達から見た宮崎駿が外周的に語られていて面白いなと思った。やっぱり宮崎駿は規格外の人物であると同時に人を惹きつけるものがあるらしい。それがよく分かる。
・本人が不在でも雑誌が成り立っているのだけど、やっぱり本人がどんな感じなのかは知りたいなと思う。
・雑誌の構成として上手いのが高畑勲への宮崎駿の弔辞だ。その前ページで鈴木Pが「弔辞で嘘をついている」と告白しており、でもみんな感動しちゃうんだよなーと言っている。それがまんまと載っていて同じ感じになってしまうので、良い遊び心だなと思った。
・読んでいたら盛り上がったので映画館へ。3回目の『君たちはどう生きるか』を見た。観客は少ないが、高校生男子が友達同士で来ているらしく予告のときから話声が聞こえた。このよく分かんねー映画をどう見るんだろうなと知りたくなった。
・3回目でも不思議となんか泣いてしまうシーンはある。実写では置き換え不可能なアニメーションの動きを焼き付けるように見た。アニメ制作には多くの人が関わっていて書き手が多い。作品を何度も見ると実は場面ごとにキャラクターの顔つきが違うことに気づけるようになる。それは原画の癖だったり許容範囲の揺れだったりシーンに対応した尺度の顔だったりする。一か所、眞人がエヴァのシンジ君みたいになっている場面があって「アッ」となった。
・作り手たちの言葉を聞いて腑に落ちる部分もあるが、根本は宮崎駿がやりたいようにしている分かるようで分からないものだ。だから何度も見てしまえるのかもしれない。これを理解したいとはあまり望んでもないし、単に見て楽しいアニメーションの醍醐味がこれ以上味わえることはあまりないので3回も見ている気がする。なんなら4回目もあり。
・せっかく出かけたのがもったいなく別の映画館へ。『ファルコン・レイク』を見た。自分には合わなかった。
・フランス映画で、田舎に行った時だけ会う少し年上の女の子にどきどきする少年を120%で描いている。匿名ラジオにそういう回あったよな?と思うほどによく見る(インターネットで)やつで、中盤からお腹いっぱいになってしまった。
・このシチュエーションで考えられることをほぼ全部やっていて、その粒度がいちいち細かいのでアンテナに情報がたくさん入り込んでくる。けど少年のひと夏の恋みたいな一面的な映画ではない。フィルム撮影の質感やら常に死の匂いのまとわりつく描写やらで決して明るく楽しい映画ではない。それがラストに顕著で、すべてをひっくり返すような終わり方をする。普通に見ていると驚いて余韻を引きずるのだろうけど、その手前であまり興味が持てなくなってしまったので全然響かなかった。
・こういうシチュエーションで語られるときはたいていなぜか少年の視点で描かれることが多く、それが理想化されているのがちょっと気持ち悪いなと感じてしまう。端的に言えばおっさん的な欲望に見えてしまい、てめぇの欲望にこちらを同期させんなやとなってしまう。本作においては少女の側にも比重が置かれていてその辺りのバランス取りができている方ではあった。単なる都合のいい欲望の転写にはなってないのは良い。
・真面目な映画を真面目に見れなくなると「ショットガンもってきて~~~」が現れる。なんかもう描かれるすべてがどうでもいいので破壊してくれ~~~~~、となるときがありそれが「ショットガン」だ。今回もそれになったのだけど、直前で読んでいた『ちいかわ』の島二郎おじさんが代理で脳裏に浮かんでいた。「島二郎おじさんやってきて~~~」と思っていた。こうなったらおしまい。
・フランスっぽい部分で気になったのは日本のアニメが登場する場面だ。そのアニメはたぶん『進撃の巨人』なんだけど、権利が取れなかったのか『進撃の巨人』っぽい何かだけが映されていた。音声もきちんとした日本なのだけどこっちも置き換えられていて(たぶん)、手を噛んで変身する要素だけをうまく抽出していて不思議な気分になった。映画の中でも手を噛む動作が何度か出てくるが、その起点が偽アニメなので妙に印象に残る。あとは『千と千尋の神隠し』のポスターが張ってあったりもしてフランスみがあった。
・時代設定は現代らしいが映像の印象とアンマッチで不思議な感触だった。ゲーム機がSwitchだったり『進撃の巨人』ぽいものが出てきたり、パーティーシーンで流れる曲はめちゃくちゃ今の若者が聞いているような曲だった。
・昼食を食べてなかったので遅めのマクド。サムライマック単品で食べた。また日記を更新してから銭湯へ。
・銭湯に行くと張り紙が出ていた。どうやら廃業することが決まったらしく、そのお知らせだった。何度も来ていて徐々に設備がパワーダウンする様子を体感していたので、ついにきたかと思った。ジャグジー風呂が動いていなかったり、サウナ前のシャワーが壊れていたりと予兆は多く、ガス代や電気代の高騰といった外部要因もたくさん考え付く。古いが広く、人が少ないので来ていたがそれが施設の魅力になっていてはいけないんだ。
・地域住民が主な客層だったなのに違いなく、最終営業日の様子を思い描きながら水風呂を行き来した。感動的な一日なのか、それまでと変わらない一日なのか。たぶん行っちゃうと泣いてしまう気がするので最終営業日付近には行かないだろうな。あと最終営業日に来た客、になるのもなんかいやかもしれない。閉業が決まったから惜しんで行く、というのはよく観察できるが矛盾を感じる。そう思うなら日ごろから行けばええやろがい、と思ってしまうがそう単純でない。
・これに類似するのは人の死だろう。訃報を受けてからメディアで特集が組まれたり、関連商品がよく売れたりする。画家は言うまでもなく、死を通ってからの方が価値が上がったり語られる頻度は増えるだろう。何かの価値を感じるのに最適なのはどうやら「不在」らしく、財布の価値を感じるのは財布を無くした時だ。不在というか差分でしか物事を認識ができないってことなんだろうが、良くないことだと捉えている死や廃業を経由しないと価値に気づけないのはバグみたいだ。
・人間がそういうバグみたいな認識の方法に頼っているのだとしたらこの現象は仕方ない。何かを惜しんでいる人は正しい反応をしているだけだ。けどそこに惜しむ権利とか、どの口が言っているんだろうかと邪推する心はどうしても出てくる。人の死を利用するのは嫌なことだとも感じているし、自分がそうなるのが嫌なんだろうな。
・銭湯は週一ぐらいで行っていたので明確に惜しんでいるし、惜しむ権利を持っている気がする。けど、じゃあ閉店までたくさん行くか~とはならず、店がない状態に慣れるためにむしろ行かなくなる可能性もある。
・外食とかでも贔屓の店といったものがなく、この銭湯が初めての贔屓の店の閉店になるかもしれない。
・それとは関係なく、お店の人と客以外の関係性になるのが何となく苦手っていうよくあるやつも持っていて、廃業に伴ってそこが強化されそう~~もある。どんな顔していいか分かんない。笑えばいい?たぶん違う。
・体重が減っていたのでビールをたくさん飲んだ。MGSシリーズの実況がvtuberに流行っているのか知らないが、そういう動画を見ていたら1時を過ぎていた。