・忙しくて日記を書けていない日。
・ふっくらすずめクラブの改名についてyoutubeコミュニティで説明がされていた。なんとも微妙な出来事によくなるな~という印象だ。
・ふっくらすずめクラブ→会社にしか友達がいない、への改名がスベっているのはそうなんだけどリアクションの湿度がジメッとしていてかなり意外だった。妙に深読みをしている人が複数人いて最近のインターネットのムードがこんなところにもあるんだなと思った。
・極端に言えば拡大解釈を超えたフェイクニュースや陰謀論を信ずる心的な何かだ。この世の全てはメッセージ!と私がたまに揶揄してしまうやつ。点と点を結びつけるバイアスが人間には存在していて因果や物語といった形式に落とし込めないと認知しにくい。そのため不協和音を減らし分かりやすくしたい欲求が普遍的にある。限られた情報を結びつける能力が発達しているゆえに行き着く先がこれか~~ってなった。星座を見てみると、それが象徴している絵と星の位置はそんなに合っていない。なんかそう見えることにするんです、ってゴリ押しで成立しているのが星座だ。
・とくにオタクと言うか何らかのファン的なものになるとこれが強化されるらしい。というか一定数それに秀でた人のタイプが存在していて、いわゆるオタクには向いている。すでにある情報から描かれていない余白やありそうなことを想像する能力。フィクションの楽しみ方の一つだ。
・すべては個人の感想に過ぎないし、それはそれで尊重されるべきだ。内心の自由を束縛する方法はない。けれどその表出がなんか不用意に作用する形で出ているのが妙に嫌だ。当人は欲求に従って解釈を発見し吐き出しているだけだが、受け取る側がどう感じるか。コミュニケーションに起こるべきことが欠落しているような感覚がある。
・それを揶揄する言葉としてお気持ちヤクザ、あるいは繊細ヤクザがある。自分の気持が最優先されるべき、と思うのは自然なのだけど社会で生きていくうえでそんなことは達成できない。だけれどそれを放棄するべきでもない。それらの間で重心が揺れ動き続けるのが普通に生きていくことと重なっている。
・自分の傷つきを表明するのは罪や報いを相手に認めさせる作用が裏で働いている。そこに正当性が無さそうに思えるとなんかな~って思ってしまうのかも知れない。これは自由論とかでも読むやつだな。
・それはそうと「自分が傷ついたのでやめてください」を理屈とすると「自分が傷ついたのでやめてください、に自分が傷ついたのでやめてください」と相手からも同様の理屈で返されてしまう。気持ちを尊重することは大切だが理屈としては弱い。なので大抵は合理性や常識に訴えるような補強がなされる。お気持ちヤクザのたぐいがどこまで求めているかケースバイケースだし、ほとんどが杞憂を発していてリアクションを期待しては無さそうにみえる。それはTwitterやXが内心の延長線上にあるような、思考のはじっこじみているからだろう。あくまで言いたいことがメインなのでほとんど愚痴と同じなのかも知れない。けれど受け取る側はそう思わないところにギャップがある。
・動画の形式は多分慣れればそういうものだなーと追いついていく気がする。
・冷笑から誠実ってタームはどこ由来なんだろうか。どこまでムードの変遷があるようには思えなくてどっちも両方常にいる。