20231117──「やる」と「できる」の対応

・やればできる、について考えていた。自分でもつい思ってしまうことがあるのだけどよくよく考えると何だ?となった。

・確かにそう思うことはたまにあるが、自分のうちから湧いたものでなく慣用句的に使ってしまう。個人的には主に面倒くさかったり腰が重かったりする物事に対して使ってしまうので「やり始めたらできる」事が多い。そんなにややこしいことに取り組んでいないので、能力的にできそうにもないことを頑張らなければならない方便には使ってない。単に経験則を言い表したいのだけどスッキリとしない。

・実際には「やる」から「できる」わけでないことに引っかかっている。「やった」から「できる」わけではない。普通に「やればできる」がそうではないので嘘だ。今から野球のプロを目指しても成れないのが真なので、反例が無限に挙げられる。

・そもそも「やる」と「できる」の対応が変な気がする。doとdoneなら分かるが、なんかdoとcanみたいな感じになっている。

・たぶん「できる」が曲者なんだろうな。できた、ではないので「できる」に含まれる可能性っぽさ、できうるに近いニュアンスに抗いたいのかも。これが「できた」であったら結果の表現に収まるのでそこまで気にしなさそう。ただ、やればできた、だとやっていないので出来ていない事の表現になってしまう。

・やればできる、と感じるときの表現はむしろ「できたのはやったから」じゃないかな。それは結果から要因を探し出すことで基本的に何でも「やったから」に行き着く。厳密には色々な要素が要因として挙げられるし、要因の要因も無限に訴求できるけれど、自分に帰着する地点に心地よさがある。けど、それがどうしてか「やればできる」という成功の法則みたいな形で抜き出されるのがなんとなく不思議だ。たぶん慣用句的に近い言葉がボキャブラリーにあるので借用しているからだと思うけど。

・最近は自由論を読んでいるのでこれは他行為可能性モデルな言葉ではないか?と思いついた。他行為可能性モデルは自由を選択肢として捉えている。AやBやCをその時行うことが出来たはずだ、に自由を見出すし主体が選択できたことに責任もあるとする(ざっくりとした理解)。やればできる、は結構これに該当していると思う。AをやっていたならばAが出来ていた、と言葉を開くことが出来るのでそこに自由と責任の両方がある。なんとなくの引っ掛かりはそこにもあるだろう。責任を私に追わせるところが薄っすらと香る。

・個々の体験として「やったからできた」はたくさんある。そこから自分を褒める言葉として「やればできるじゃん」は全然ありで、というか自分に向けた結果の言葉としてだけ有効な文に思える。

・これが外部から言われると一気に「うるせぇな」感が増す。こういう言葉をはいくつかあって「お客様は神様」「自分の機嫌を自分で取る」なんかは自分に向けて言っている分には別によい。ただ他人から言われると意味が全然変わってくるので。まああんまり無いと思うけど。

・とかなんとか考えていたけど、読んでる本『そうしないことはありえたか?』にドンピシャの内容が書かれていた。読んだのに忘れたのか、薄っすらと残っていたのか分からないけど自分の考えみたいな感じに書いてたので怖いな。