・6時ごろに起きたがめちゃくちゃ眠い。今日はずっと眠い日。布団でジャンプを読み、ありスパを聞く。
・undertaleのGルートをやる。なんとなくでプレイしていたがちゃんと調べるとGルートに入る手段が明確にあった。ただNルートでモンスターを倒しまくるニンゲンになるところだった。
・Gルートに入ると音楽が変わったり動線が省略されたりしてプレイが変わる。「しかしだれもこなかった」「ケツイ」。
・ゲームであることを差し置いても結構嫌な体験をするルートだなぁーと思っている。グロやゴアのホラー映画を見たりするのとは少し違う嫌さがそこにある。悪夢のような、とは言うけれどGルートは本質的には夢に近いのかもしれない。その感触が形容詞しがたくザワつくのでつい悪夢と呼びたくなる。
・ルート分岐は3つあり、通常Nと平和Pと虐殺Gに分かれる。すでにそれで有名になっているのもあるがルートの存在を知りつつもまずは普通に通常Nエンドにたどり着くプレイヤーが大半。次いで平和Pか虐殺Gをやるのが王道かと思う。つまり普通に一回プレイしているからこそルート分岐が意味を持つことになる。これはどのゲームでも同じだけどGルートをやっていると特に「夢っぽさ」を感じる。不思議だ。
・たぶんエンディングが変わる程度の変化でなくその世界やキャラクターが「通常N」と乖離していく幅が大きいからだと思う。現実があるから夢があるわけで、夢の素材は現実世界の何かしらで構成されている。Undertaleではこの現実世界にあたるのが「通常N」ルートなわけだ。現実の世界はただ一つしかないがゲームの世界もある意味同じ。Toby Foxによって作られた固有の世界はおいそれとは変わらない。けれど現実世界との決定的な違いは有限性にある。ゲームの世界は有限だけど現実世界は無限にディディールがあり作り込みそれ自体がない。どこまでも世界は続くしどこまでもミクロな細部も限りない。
・そういう違いはありつつ、違うルートに入る体験は「現実世界と夢」と同じような構造になるのでなんか没入できる気がする。通常Nを使った夢、そういうところが一つ仕掛けとして意味がありそうだと思った。『インセプション』の夢の中の夢みたいな感じで。
・夢っぽさでいうと主人公がプレイヤーの操作と関係なく動くところもかなり夢っぽい。夢は「見る」ものだけどゲームはそうでない。映画を「夢」だと例えることはままあるけどもゲームは操作や選択が特徴的なメディアなのもあって夢の性質とはかけ離れている。それが別ルートという仕掛けで一気に夢に近くなる。現実世界では自分を動かせるのに、夢はそうではない! ただし稀に夢の中で動けるという人がいるのでこの発想の一般化は難しい。私は夢を見ることしかできないのでこの例えの重ね合わせがとてもしっくりくる。
・もう一つ大事なのがこの夢(虐殺Gルート)を見ることを、プレイヤーが「選ぶ」必要があることだ。ただ寝れば見られる夢と違ってゲームはこの夢を見る決定が必要になる。陰惨で救いが無いと分かっていながらも、それを夢見ることを選んでいる罪悪感が最初から用意されている。とんでもなく意地悪なゲームじゃない?って思い始めている。
・だからアズゴアは「ドリーマー」だったりするのかな?
・それはそうとアンダインが強くて今日は諦めた。
・仕事がウワーーーーとしていて飲酒欲が出た。そうか、ストレスをごまかすために酒を飲んでいたんだなと気がついた。気がついが飲まずにはいられないのでビールと酎ハイを1杯ずつ飲んで寝た。